できない子
人間は誰もが本当に本当に高い優れた学習能力を持って生まれてくるのだと思う。問題は何を学習したか、いや、してしまったかということなのではないか。
私は家庭教師をしていた学生時代も含めると40年ほど英語を教えることを続けてきた。本当に高い能力を示す生徒もいれば、極めて学習能力の低い生徒もいる。
才能教育で知られた鈴木慎一は、音痴の子を指導した経験から、矯正ということは不可能と言っている。つまり、誤った、不安定な音を学習してしまっていると考える訳だ。だから、そういう子には正しい音程を学習させて、そちらへの習熟度の方を高くするほかはないというのだ。つまり、音程を矯正するのではなく、学習能力はいくらでもあるのだから、正しい音程の方を新たに学ばせると考えるわけだ。
この考え方は非常に重要だと思う。いわゆる、「できない子」は、実はできなくなる能力を学んでしまっているということがだんだんわかってきた。
教員になりたての頃は、鈴木の、「正しい能力を身につける」という考えで、劣等生を指導してそれなりに効果を上げたと思っていた。
「よるべない」という言葉があるが、ものをよく覚えられない子には、知識のベースになるような意味の関連のある知識のセットを与えることからはじめなければならない。英語の場合は、例えば、アルファベットやbe・助動詞系vs.一般動詞系の疑問文否定文変換のルールなどは必須のものだが、これだけでも気の遠くなるほどの繰り返しが必要な子もいる。それでも知識を効果的に積み上げるためにはこの作業は必要で、身につくと、普通は学校では切り捨てられてしまうような子でも後々相当の力を発揮する。さて、「できなくなる能力を学んでしまっている」ことに戻ろう。言葉は普通に話せるのに平均的な子に比べて著しく学習能力が低い様に見える子も実は非常に学習能力は高いのだ。
一番痛ましく、回復に時間がかかるのは、しかられたり、怒鳴られたりされ続けた子。普通に話しても、しかられていると聞こえてしまうようなのだ。本人がそう感じてしまったら、耳は開いていても心は閉じている。まあ、実は誰でも、心を閉ざす能力は相当に学んで自分のものにしているのだろうが。(笑)
そして、実は劣等生は他と比較して自分が劣っていることを嫌というほど敏感に感じている。そのためボーっとしているように見せることを学んでしまっている。これも、見ていて本当に辛い。もちろん私もそんなこと気にもとめないように振舞うことを学習してはいるが。
先程知識のベースと書いたが、小学校4年生くらいまでの子の授業では、音が中心で幼児は特にそうなのだが、繰り返し音を再生する能力は殆ど差がない。というよりあまり知識量のない子の方が、音の素直な再生力は高い傾向がある。しかし、意味理解(日本語に直すという意味ではない)、記憶というものが加わると差が目立ってくる。 フローベルは「エンマは私だ。」と書いたそうだが、私もよく「~は私だ。」とおもうことがある。仏教の四弘誓願のひとつに、「煩悩無尽誓願断」があるが、「学習してしまった」習性を煩悩と言うのかもしれない。そしてこれは知識や考え方に留まらず、身体や筋肉の癖にも当てはまるのだろう。
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私は家庭教師をしていた学生時代も含めると40年ほど英語を教えることを続けてきた。本当に高い能力を示す生徒もいれば、極めて学習能力の低い生徒もいる。
才能教育で知られた鈴木慎一は、音痴の子を指導した経験から、矯正ということは不可能と言っている。つまり、誤った、不安定な音を学習してしまっていると考える訳だ。だから、そういう子には正しい音程を学習させて、そちらへの習熟度の方を高くするほかはないというのだ。つまり、音程を矯正するのではなく、学習能力はいくらでもあるのだから、正しい音程の方を新たに学ばせると考えるわけだ。
この考え方は非常に重要だと思う。いわゆる、「できない子」は、実はできなくなる能力を学んでしまっているということがだんだんわかってきた。
教員になりたての頃は、鈴木の、「正しい能力を身につける」という考えで、劣等生を指導してそれなりに効果を上げたと思っていた。
「よるべない」という言葉があるが、ものをよく覚えられない子には、知識のベースになるような意味の関連のある知識のセットを与えることからはじめなければならない。英語の場合は、例えば、アルファベットやbe・助動詞系vs.一般動詞系の疑問文否定文変換のルールなどは必須のものだが、これだけでも気の遠くなるほどの繰り返しが必要な子もいる。それでも知識を効果的に積み上げるためにはこの作業は必要で、身につくと、普通は学校では切り捨てられてしまうような子でも後々相当の力を発揮する。さて、「できなくなる能力を学んでしまっている」ことに戻ろう。言葉は普通に話せるのに平均的な子に比べて著しく学習能力が低い様に見える子も実は非常に学習能力は高いのだ。
一番痛ましく、回復に時間がかかるのは、しかられたり、怒鳴られたりされ続けた子。普通に話しても、しかられていると聞こえてしまうようなのだ。本人がそう感じてしまったら、耳は開いていても心は閉じている。まあ、実は誰でも、心を閉ざす能力は相当に学んで自分のものにしているのだろうが。(笑)
そして、実は劣等生は他と比較して自分が劣っていることを嫌というほど敏感に感じている。そのためボーっとしているように見せることを学んでしまっている。これも、見ていて本当に辛い。もちろん私もそんなこと気にもとめないように振舞うことを学習してはいるが。
先程知識のベースと書いたが、小学校4年生くらいまでの子の授業では、音が中心で幼児は特にそうなのだが、繰り返し音を再生する能力は殆ど差がない。というよりあまり知識量のない子の方が、音の素直な再生力は高い傾向がある。しかし、意味理解(日本語に直すという意味ではない)、記憶というものが加わると差が目立ってくる。 フローベルは「エンマは私だ。」と書いたそうだが、私もよく「~は私だ。」とおもうことがある。仏教の四弘誓願のひとつに、「煩悩無尽誓願断」があるが、「学習してしまった」習性を煩悩と言うのかもしれない。そしてこれは知識や考え方に留まらず、身体や筋肉の癖にも当てはまるのだろう。
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この記事へのコメント
人からよく「あんたは人の気持ちが分からない」と言われ、確かに思い当たるふしがありすぎるほどあるので、どうせ自分には人の気持ちは分からないと開き直ったりしていましたが、でも相手の状態を理解したいという気持ちはやはりあるのです。でも、なかなか相手の環境からその心象風景をつかむことはできません。まして、困っている人が本当に必要としていることを見つけ出すのは。でも、joyさんの姿勢を伺って、その努力を怠ってはいけないし、自分にも何かができるのではないかという気になりました。ありがとうございます。
私も人の気持の分かる方ではないと思います。教員をやめ、自分で英語塾を初めてからは、少ない授業の中での生徒の表情発言仕草行動を全部再現してノートに書き、分かることはないかと考えていたこともあります。やっぱり本人が話したいという気持ちを起こさせるということなんでしょうかね。本来の学習能力にはそう、差があるはずはないので、きっかけさえ掴めれば誰でもいくらでも力を発揮するのでしょう。